北山その1

北山その1地図

 鎌倉時代,臨済宗に帰依した伊達家4世政依は,京都五山・鎌倉五山に倣い,先祖と自身の菩提寺として伊達郡に東昌寺・満勝寺・光明寺・ 観音寺・光福寺を創建し「伊達五山」とした。仙台開府に当たって伊達政宗は城下北端の丘陵地・北山に北の守りとして伊達五山の流れを汲む 臨済宗四ヶ寺(東昌寺・満勝寺・光明寺・資福寺)と臨済宗覚範寺,曹洞宗輪王寺を置き,臨済宗五ヶ寺を「北山五山」と呼んだ。 現在は満勝寺が移転したため輪王寺を含めて北山五山という。

丸の内に竪三つ引き両 001 無為山東昌寺 Toshoji
2006.04.30

東昌寺本堂 2006当時
東昌寺本堂 2006当時

 臨済宗東福寺派。弘安6年(1283)伊達政依が自らの菩提寺として桑折に創建。室町時代,幕府が全国に設置した安国寺に東昌寺が列せられたため, それ以降,五山の筆頭格となった。一門格寺院。永禄3年(1383)米沢高畠。その後,天正18年(1590)政宗とともに岩出山,更に慶長6年(1601)北山に移転。 当初は城下奥州街道(今の国分町通り・青葉神社通り)の北突当たりにあった。 明治になって青葉神社が東昌寺の敷地西半分に造営され,明治6年(1873)に東の現在地に移動。 明治9年(1876)火災で焼失,明治33年(1900)に再建。 赤松並木の参道。本堂北東には推定樹齢500年の巨木で丸い実を付ける「丸実榧(マルミガヤ)」がある。 政宗が城下の鬼門除けとして植えたと伝えられる。7歳で亡くなった2代忠宗の長男虎千代丸の墓が本堂裏手にある。

✽ 所在地:青葉区青葉町8-1,本尊:釈迦牟尼仏

東昌寺 マルミガヤ
マルミガヤ

マルミガヤは樹齢500年の巨木。見上げてもなお最頂部が遠い。国指定天然記念物。写真では大きさがいまいちわかりませんね。

赤松の参道の右手南斜面は墓地ですが,立派な桜が何本も墓地に被さるように咲いていたのが目を引きました。参道下,北山通りに駐車場があり, オーソドックスな参道からの参詣に便利。

東昌寺 赤松の参道
赤松の参道

東昌寺山門
東昌寺山門
東昌寺山門扁額
東昌寺山門扁額

山門は質素な薬医門。表札が微笑ましい。扁額には山号の「無為」の書。ネットによれば山岡鉄舟の筆だそうです。



平成25年(2013)5月6日再訪

東昌寺本堂2013
東昌寺本堂2013

本堂の屋根は大震災後,銅板葺になりました。スッキリして中々いいですね。


東昌寺入口
東昌寺入口

北山通りからの入口には石地蔵の小堂がある。

東昌寺 虎千代丸の墓
虎千代丸の墓

本堂裏手には虎千代丸の墓があります。向かって右が虎千代丸の墓。左に並んでいるのは大有康甫和尚(東昌寺14世。政宗の大叔父)の墓です。


丸の内に竪三つ引き両 002 松蔭山光明寺 Komyoji
2006.04.30

光明寺本堂
光明寺本堂
光明寺本堂扁額
光明寺本堂扁額

 臨済宗東福寺派。伊達氏始祖朝宗の夫人,光明寺殿の菩提寺。弘安6年(1283)伊達4世政依が福島県伊達郡光明寺村に創建。 その後慶長9年(1604)にこの地に移った。一門格寺院。慶長遣欧使節として欧州に渡航した支倉常長の墓と, 使節団の案内人であった宣教師ソテロの記念碑が建っている。

✽ 所在地:青葉区青葉町3-1,本尊:千手観音


丸くカットされた低木が特徴的な参道。庭園風で小奇麗です

山門は薬医門。立派。でも中央に柵があり脇戸から入る。なぜ?

光明寺 支倉常長の墓とソテロの記念碑
支倉常長の墓とソテロの記念碑

境内に支倉常長の墓とソテロの記念碑があります。常長の墓といわれるものは他に大郷町と川崎町支倉にもあるそうですが,明治の学術研究でここの墓が本物と考証されたそうです。

丸の内に竪三つ引き両 003 遠山覚範寺 Kakuhanji
2006.04.30

 臨済宗妙心寺派。天正13年(1585)非業の死を遂げた政宗の父輝宗の菩提寺。遠山は「えんざん」と読む。 天正14年(1586)に伊達政宗が米沢遠山村に創建。政宗の師,虎哉和尚が開山一世。その後,伊達家に従い文禄元年(1592)岩出山, 慶長6年(1601)仙台愛宕山(現誓願寺跡)に移ったが,翌慶長7年(1602)に焼失し,この地に再建した。一門格寺院。 政宗の正母・保春院の墓と政宗の三男・宗清の供養塔がある。

✽ 所在地:青葉区北山1丁目12-7,本尊:聖観音

覚範寺本堂
本堂
覚範寺山門
覚範寺山門

覚範寺山門扁額
山門扁額

本堂はRC造。この辺りの寺社は皆北山の大火後の再建。本堂前ボラード上の小さな石達磨はお茶目でした。そして山門は仁王が守る3間1戸の八脚門。豪勢。参道は広い。

覚範寺 保春院の墓
保春院の墓と宗清の供養塔

本堂左手を奥に進むと保春院の墓と宗清の供養塔があります。奥右が保春院の墓,左が宗清の供養塔。保春院は元和9年(1623)仙台城で没し,夫の菩提寺であるここ覚範寺に葬られました。政宗公の三男宗清は黒川郡の領主。寛永11年(1634)享年35歳死去。 墓所は黒川郡大和町吉岡の天皇寺にあります。政宗公は寛永13年(1636)没なので,当時はまだ存命中。祖母と孫を並べたのは政宗公の配慮でしょうか。


平成25年(2013)5月6日再訪

覚範寺 六地蔵
覚範寺 六地蔵

保春院の墓への道に六地蔵が並んでいます。

 

輝宗の亡骸は輝宗自身が虎哉和尚を招いて中興した米沢の資福寺に葬られました。資福寺は後に仙台に移転しましたが,輝宗とその忠臣の墓は, 現在は廃寺となった米沢の資福寺跡に今もあります。後に妻の保春院をここに埋葬するのであれば,輝宗の墓もその時に移転すればよかったのに… と思うのは今風の考えなのでしょうね。


平成30年(2018)5月6日再訪

GW連休最終日。今年の後半連休は雨模様が続いていましたが,最終日になってようやく晴天に。陽気にひかれて北山散歩です。覚範寺はずっと参道と本堂扁額の写真を忘れ物にしてましたが,この度ようやくゲットです。

覚範寺入口2018
覚範寺入口2018
覚範寺参道2018
覚範寺参道2018

覚範寺本堂扁額
本堂扁額

天正13年(1585)父・輝宗から家督を引き継いで1年足らずの政宗は,それまで同盟関係にあった蘆名領に侵攻し二本松城主・畠山義継を攻めた。同年10月,義継は輝宗の斡旋により降伏を受け入れ和睦し,調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れた。ところがその帰り際,義継は突然翻意し,輝宗を捕らえて人質として二本松城へ連れ去ろうとする。後を追いつつも手出しできずにいた伊達勢であったが,輝宗が自分もろとも撃てと叫んだことで一斉射撃に踏み切り,輝宗は壮絶な死をとげる。政宗19歳,輝宗42歳であった。政宗は輝宗の遺骸を福島佐原の寿徳寺で荼毘にふし,遺骨を現在の山形県置賜郡夏刈にあった資福寺に葬った。その後、政宗は間をおかず弔い合戦に出陣し二本松城を包囲する。しかし、これをなかなか落とせずにいる間に佐竹氏,蘆名氏らによる南奥諸大名の連合が成り,三万の兵が畠山救援に北上してきた。政宗は二本松城包囲から兵七千を割いてこれに対峙,阿武隈川支流の瀬戸川に架かる人取橋付近で両軍激突となった。いわゆる「人取橋の戦い」である。戦いは数に勝る連合軍が一方的に攻め,政宗も鎧に矢一筋,銃弾五発を受けるなど伊達勢の敗色濃厚であった。しかし,日没による一時戦闘終結の夜,陣内における事件や佐竹氏の本国急変情報により連合軍が一方的に撤退し,政宗は生涯最大の危機を脱したのであった。翌天正14年(1586)年4月,政宗は再び二本松城を包囲する。7月に相馬義胤の調停により畠山氏が降伏し二本松城はようやく落ちた。8月,政宗は米沢に凱旋し資福寺の輝宗の霊前に戦勝を報告。10月,菩提を弔うため米沢西南の遠山村に覚範寺を開基,夏刈の資福寺から虎哉宗乙禅師を招き開山とした。その後,天正19年(1591)政宗が豊臣秀吉の命によって岩出山へ移ったのに伴い,覚範寺も米沢から岩出山に移り,更に慶長6年(1601)には仙台の愛宕山に移った。当初,米沢にも寺は残されていたが政宗の後に置賜を支配した蒲生氏郷により取り壊されたという。慶長7年(1602)3月16日,仙台城下普請中に小人(しょうじん=足軽よりも身分の低い下級武士)と普請奉行との間に争いが起こり,小人たちが覚範寺の庫裡に逃げこんで火を放ち自害するという事件が起こった(小人騒動)。これにより覚範寺は焼失,現在の北山の地に移転造営されたのである。元和9年(1623)7月16日,政宗の母・保春院が逝去し覚範寺に葬られた。寛永13年(1636)5月24日,江戸桜田上屋敷で伊達政宗逝去。6月3日,政宗の霊柩は父母に縁深いここ覚範寺に安置され中陰の法要が営まれた。覚範寺はその後寛政2年(1790)焼失,翌年再建されたが明治9年(1876)の山火事により再度焼失する。昭和18年(1943)に本堂再建。しかし昭和33年(1958)に放火によりまたも焼失。昭和42年(1967)本堂再建,昭和57年(1982)庫裡再建で現在に至っている。

丸の内に竪三つ引き両 004 金剛宝山輪王寺 Rinnoji
2006.05.05

輪王寺本堂2006当時
輪王寺本堂 2006当時

 曹洞宗。嘉吉元年(1441)伊達9世政宗夫人(蘭庭明玉禅尼)の所願により11世持宗が夫人の菩提寺として梁川に創建。 夫人の姉が足利3代将軍義満の生母だったため6代将軍義教が後花園天皇に奏請し金剛宝山輪王禅寺の額を賜る。その後,伊達氏に従い西山(桑折)・米沢・ 会津・米沢・岩出山・仙台と移転(輪王寺の六遷)。慶長7年(1602)現在地。奥州における曹洞宗総録司。 昌伝庵(荒町),泰心院(南鍛冶町),松音寺(連坊)とともに仙台城下曹洞宗四大寺を成し,その主座。一門格寺院。 明治9年(1876)野火に類焼し仁王門のみを残して全焼。大正4年(1915)本堂と庫裡が復興。 現在までに回遊式庭園と梵鐘・位牌堂・坐禅堂・開山堂などの七堂伽藍,茶室半杓庵も建設された。昭和56年(1981)開山五百年を記念し三重塔を建立。 政宗夫人愛姫の母と三男竹松丸の墓がある。

✽ 所在地:青葉区北山1丁目14-1,本尊:釈迦牟尼仏

輪王寺山門

山門は元禄4年(1691)4代藩主綱村建立。3間1戸の八脚仁王門。

輪王寺 本堂扁額

本堂扁額

すいません・・・読めません。

輪王寺 山門扁額

山門扁額

「海東禅窟」とあります。

輪王寺庭園

庭園から三重塔を望む。桜が舞う。

輪王寺蘭庭堂

蘭庭堂

庭園内で一番新しそうな小堂。菩提を弔う蘭庭明玉禅尼に関係があるのでしょうね。


輪王寺 愛姫の母と竹松丸,政宗に殉じた藩士達の墓
愛姫の母と竹松丸,政宗に殉じた藩士達の墓

写真手前の宝塔の後ろが愛姫の母,密乗院の墓,中央宝塔の後ろが竹松丸の墓です。

 

久しぶりの輪王寺の庭園見物。入園料300円。仙台ではここと経ヶ峰の瑞鳳殿位でしょうか。規模は小さいが仙台一の庭園だと思います。 以前より遊歩道などの整備が進んだよう。桜も終わりツツジや菖蒲には早い時期でしたが,最後の桜吹雪が舞っていました。ホントは参道も仙台一いい感じなのですが 今は都市計画道路工事の真最中。杉は全て伐採されオープンカットの掘割が参道を横断中でした。


平成25年(2013)5月6日再訪

輪王寺本堂2013
輪王寺本堂2013
輪王寺参道2013
参道2013

道路工事後の緑化復元では杉並木を再生しなかったんですね。考えがあってのことでしょうが,昔を知る者としては残念な気もします。


丸の内に竪三つ引き両 034 青葉神社 Aoba jinja
2006.07.03

青葉神社入口
青葉神社入口

 武振彦命(たけふるひこのみこと・伊達政宗)を祀る。元々仙台城内にあったが明治7年(1874)東昌寺の敷地西半分に造営・移転した。 大正11年(1922)改築に着手し,昭和2年(1927)現在の社が完成。春の例大祭は政宗の命日の5月24日・25日。 今では山鉾巡行と雀踊りコンテストがメインの仙台市民をあげての祭りになっている(青葉まつり・毎年5月の第三日曜日とその前日)。 本殿内に政宗夫人を祀る愛姫神社,境内東側に政宗の家臣を祀る祖霊社がある。

✽ 所在地:青葉区青葉町7-1,主祭神:武振彦命,例祭:10月9日

青葉神社通り突き当りから北に真っ直ぐ参道が伸びています。いきさつから見て,昔は東昌寺の参道だったのではないでしょうか?

青葉神社鳥居2006
青葉神社鳥居2006

入口を入ってすぐの白い石鳥居は昭和初期,社の完成と同時期の建立。参道に覆いかぶさる緑。森林の匂いがする。


参道は階段の途中で鉤型に曲がって更に上に続きます。

 

青葉神社の「青葉まつり」が始まったのは明治8年。それ以前は仙台東照宮の秋の例大祭である「仙台まつり」において, 各町内ごとの山鉾が巡行していたが,この年から政宗公の命日である5月に青葉神社の祭りとして行われるようになった。 その後,電線のために山鉾の巡行が困難になり明治32年の仙台開府300年祭が最後となっていたが,昭和60年,政宗350年祭で「仙台青葉まつり」として復活。 63年からは山鉾が再登場した。

 

東昌寺を脇にどけてまで造った経緯には疑問を感じますが,廃仏毀釈の明治時代のせいでしょうか。 歴史ある北山五山の一角に割り込んで政宗公が本当に喜んだろうか。 とは言え,ロケーションは最高。政宗公を祀るに相応しい場所でもある。広い境内は静かでいい。


平成25年(2013)5月6日再訪

青葉神社鳥居2013(倒壊)
倒壊した鳥居

大震災で鳥居は倒壊してしまいました。かつての鳥居(の残骸)は左奥にモニュメント風に纏めて祀られています。復旧が待たれます。

青葉神社祖霊社
祖霊社

伊達政宗公の家臣を祀っています。明治12年(1879)の建立。



平成26年(2014)10月4日再訪

青葉神社 新鳥居2014
青葉神社 新鳥居2014
青葉神社 新鳥居2014 青葉神社通りを望む
青葉神社 新鳥居2014 青葉神社通りを望む

青葉神社拝殿2014
青葉神社拝殿2014

今年の青葉まつりに合わせて5月に鳥居が再建されました。おめでとうございます。3年半ぶりに見る雄姿です。 以前と同じ大きさなのでしょうか?随分と大きく感じます。



平成30年(2018)5月6日再訪

青葉神社拝殿扁額
拝殿扁額

天気にひかれて北山散歩。やっと青葉神社の社殿撮影場所を見出しました。この角度,良くない?

青葉神社2018
青葉神社2018

三つ鱗 035 慈雲山資福寺 Shifukuji
2006.07.03

紫陽花の資福寺山門前
紫陽花の資福寺山門前

 臨済宗妙心寺派。弘安年間(1278~87)米沢の高畑夏刈に時の領主長井時秀西規が建立したもので,関東十刹の一つとして東北の学問の中心をなした。同時期の弘安6年(1283)伊達四世政依は伊達郡桑折に三世義広の菩提寺として観音寺を,義広夫人の菩提寺として光福寺をそれぞれ創建している。その後,伊達氏の米沢移転に伴い,元亀3年(1572)伊達16世輝宗は美濃から虎哉和尚を招聘して資福寺の中興開基とし,この時,資福寺に観音寺と光福寺を吸収したという。 資福寺は後の伊達氏の移転に従い,天正19年(1951)岩出山,慶長5年(1600)仙台谷地小路(東六番町),寛永15年(1638)現在地に移転した。 境内には500株以上の紫陽花が植えられ,あじさい寺と呼ばれる。平成9年に本堂新築。観音堂は慈覚大師(一説に恵心)作と云われる聖観音を祀り 仙台三十三観音第三番札所となっている。 元は末寺の恵照山定光寺にあったが,火災に遭い明治37年(1904)廃寺になったため当寺に遷された。現観音堂は昭和59年(1984)の新築。

✽ 所在地:青葉区北山1丁目13-1,本尊:観世音菩薩(高村光雲作)

資福寺観音堂
資福寺観音堂 観音像は定光寺からの移転
資福寺花心門
資福寺花心門

境内東にある簡易な門。花心門との表示。境内中が紫陽花に覆われて通るのも大変。今,花盛り。


ちょうど花の季節で多くの拝観客とカメラマンが訪れていました。紫陽花また紫陽花。花は全部,紫陽花です。


平成25年(2013)5月6日再訪

資福寺本堂
資福寺本堂
資福寺本堂扁額
本堂扁額

紫陽花が咲くまでは,さすがにGWとはいえ人はまばら。北山巡り?の人たちがチラホラ。綺麗な境内は落ち着きます。 花心門前には八重桜もあって満開。紫陽花だけではありませんでした。


資福寺山門
資福寺山門
資福寺山門扁額
山門扁額
資福寺入口
資福寺入口

036 鹿島神社 Kashima jinja
2006.07.03

弘安2年(1279)伊達4世政依が福島県伊達郡に勧請。政宗が慶長9年(1604)光明寺と共に当地に遷祀した。

✽ 所在地:青葉区青葉町3-14,主祭神:武甕槌神,経津主神,例祭:9月29日

鹿島神社鳥居(階段上)
鹿島神社鳥居(階段上)
鹿島神社拝殿 2006当時
鹿島神社拝殿 2006当時

仙台七崎のひとつである鹿島崎の上に建ち,他の五山同様の参道を登ります。小振りの鳥居が最上段にあります。鹿島崎の地名由来はこの神社にあるのかもしれません。

鹿島神社参道
鹿島神社参道

参道前の掲示説明には慶長12年(1607)光明寺とともに当地に遷座とありますが, 本HPでは光明寺の項と合わせ慶長9年としています。本殿は昭和8年(1933)改築建立です。



平成22年(2010)10月17日再訪

参道入口の赤鳥居は平成20年の新設。

鹿島神社赤鳥居扁額
赤鳥居扁額
鹿島神社入口鳥居


平成25年(2013)5月6日再訪

鹿島神社 境内社の塩竃神社ほかの石碑石仏群
境内社の塩竃神社ほかの石碑石仏群

 主祭神は武甕槌神(たけいかずちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)の二柱。 前者は雷神で茨城の鹿島神宮を,後者は霊剣の神で千葉の香取神宮を総本宮とし,当社を「鹿島香取神社」と記すものもあります。 両社は利根川下流両岸にあり,古代から中臣氏(あの大化の改新の)が祀り,武勇・勝利の神として特に武士に信仰されました。

鹿島神社拝殿2013
鹿島神社拝殿2013
鹿島神社拝殿扁額
鹿島神社拝殿扁額

拝殿の浜縁が新しくなっていました。


037 喜伝山秀林寺 Shurinji
2006.07.03

 曹洞宗。もともと泉区松森にあった古寺で,寛永18年(1641)郷士丹野今内が現在地に移し開基,輪王寺十三世和尚を勧請し開山されたと言う。本堂内に大黒天像があり,仙台七福神巡りのひとつ。山門は平成5年(1993)新設の竜宮門で「三千大仙門」と呼ばれ「智慧」「慈悲」「方便」それぞれの千体仏を祀っている。

✽ 所在地:青葉区北山1丁目3-1,本尊:釈迦牟尼仏

秀林寺山門
秀林寺山門
秀林寺入口
秀林寺入口

竜宮門とは珍しいのでは? 2階に鐘楼。これも楼門形式というのでしょうか。両脇の仁王像もすごいですね。


平成30年(2018)5月6日再訪

秀林寺山門2018
秀林寺本堂2018
本堂2018

本堂屋根中央の唐破風が撤去されましたね。恐らく震災被害があったのだと思います。山門は相変わらずの威容。門を潜ると内部には多くの仏様が林立している様子が見えます。今回は扁額も撮ってきました。


039 上方山日浄寺 Nichijoji
2006.07.08

日浄寺本堂
日浄寺本堂

日蓮正宗。寛永20年(1643)瀬上丹後時綱開基,好学院日興開山。

✽ 所在地:青葉区堤町2丁目2-1

 

北山のはずれ,鹿島神社のある鹿島崎と梅田川を挟んだ対面の高台にあります。 北山ほどの高さはありませんが,意外と高低差があって趣の感じられる参道です。 このあたりの梅田川を堤で堰き止めて溜池を造っていたので堤町と言うそうです。奥州街道はこの堤の上を通じていました。

日浄寺参道
日浄寺参道
日浄寺山門
日浄寺山門

山門はがっちりとした1間1戸の四脚門。本堂は参道を登りきり山門の正面にある。

梅鉢 040 堤町天神社 Tsutsumimachi tenjinsha
2006.07.08

堤町天神社
堤町天神社

享保18年(1733)創建。伊達藩士島田源之亟が台原散策中に土の中から天神像を見つけ,雪岡和尚が「玉手崎の赤塔天神の御聖像」として紹明寺境内に一社を建立し祭祀した。(仙台市立荒巻小学校開校50周年記念誌)

✽ 所在地:青葉区堤町2丁目10-19,主祭神:菅原道真公,例祭:4月23日

 

奥州街道の城下北辺,足軽町であった堤町の通りから狭い小路を入った所にあります。周りは全て住宅地。 わかりにくいですが,集会所にもなっているようで,地区のコミュニティの中心のような場所でしょうか。


西六条下り藤 042 宿縁山恩慶寺 Onkeiji
2006.07.08

浄土真宗本願寺派。慶長15年(1610)岩城国(現福島県)若松観音堂別当の専西坊教順が市内南鍛冶町に草庵を結んだのを創始とする。 寛文2年(1662)本山より寺号を賜り,現在地に移転した。(杜の散歩道)

✽ 所在地:青葉区木町12-3

恩慶寺山門
恩慶寺山門
恩慶寺本堂
恩慶寺本堂

境内全てが新しい伽藍。ほんの最近の築造のようです。墓地,庭も綺麗に整備されています。


平成30年(2018)5月6日再訪

恩慶寺山門2018
山門2018
恩慶寺本堂2018
本堂2018

恩慶寺山門扁額
山門扁額

久しぶりの訪問。山門は塗装で渋くなっています。本堂も塗装し直し(12年も経っていれば当然ですが)て,より落ち着きました。親鸞聖人は少し日焼けしたくらいで静に佇んでいます。

414 正眼院観音堂 Seiganin kannondo
2013.03.17

正眼院(虎千代)は2代忠宗長男で政宗の初孫だったが7歳で夭逝。虎千代の菩提所・正眼院は東昌寺の塔頭で,現在,正眼院観音堂に名を残す。 正眼院観音堂の観音像は四十七士の唯一の生き残り寺坂吉右衛門が寄贈したとの伝承がある。(平成23年1月三本松市民センターだより)

✽ 所在地:青葉区堤町2丁目4-16

正眼院観音堂
正眼院観音堂
正眼院観音堂前石仏
正眼院観音堂前石仏

新しそうな建物。集会所のような。門前の石仏が仏堂であることを偲ばせます。


415 木町千手観音堂 Kimachi senjukannondo
2013.03.17

300年以上前,北八番丁の足軽加藤作左衛門が夢でお告げを受け,七北田村山中で千手観音,聖観音,勢至菩薩の三尊を発見,千手観音を家の守り神とした。 正徳2年(1712)その息子が現在地に小堂を建立し遷座したという。現在の鞘堂は昭和16年(1941)の建築。(河北新報H24.06.25夕刊より)

✽ 所在地:青葉区木町16-23,本尊:千手観音

木町千手観音堂
木町千手観音堂
木町千手観音堂扁額
木町千手観音堂扁額

住宅地の中,奥まった所にありますが,入口に案内板もありすぐにわかります。 地域で宗教法人を作って守り続けているそうです。金色に輝く観音像が拝めます。